2016年9月1日 アナリスト・記者・学者それぞれのアプローチと検証

 

企業・産業・経済を分析し評論・予想するという点では、アナリスト、記者(ジャーナリスト)、学者(経営、経済)は似ている。自身はアナリストであって記者や学者ではないが、それぞれ知人も友人も多く、一緒に企業の説明会に参加し、取材し、議論し、それぞれの論文や書籍も読んでいる。そして、アナリストや記者から学者に転じる者も多いなど、ある程度、人材交流もある。そこで、この3者で、何が同じで何が違うのか、考察してみた。当然、それぞれに、タイプが異なるし、アナリスト側の立場なのでバイアスがかかっている点、昨今のアナリストの劣化や問題点は無視している点は御容赦願いたい。

 

それぞれの目的とアプローチ

 

 まず、それぞれの目的であるが、アナリストは企業の未来予測、記者ジャーナリストはその事実解明、学者は普遍的な真実の追求にあるだろう。アプローチあるいは、その評価のポイントは、アナリストでは分析による予測当否と検証の繰り返し、ジャーナリストは多くの証言を集め記述、学者は、未来予測よりも現在までに起きている事象の真実解明であり、証言や事例収集に加え、ロジックや記述、データ解析、さらには引用などがアプローチ上、重要となる。

 

説得性検証性

 

 ここで、説得性検証性を整理すると下記の表のようであろう。この中で、予測が当たる、というのは、インパクトも大きく、専門家であれ大衆であれ、強い。また、当たるという場合、頻度もあるが、それ以上に影響が大きいのは、権威も含めて大多数のコンセンサスと真逆な予想が当たることである。予想をしない場合、予想結果の判断が難しい場合は、論理性や記述内容のボリュームと深さだろうが、論理性と言っても数学的であれば、専門家は分かっても大衆は判断できない。記述内容も成否よりは説得性に近く微妙である。引用を多様、権威の後ろ盾もあるが、それに依存しすぎるとオリジナリティはない。データ解析も大衆受けは別にして有効だが、十分なデータがない場合、ガウス分布を前提とできない場合は、統計処理が難しい。

 

 経済学者の論文でケースやアンケートでの分析例が多いが、統計処理をする以前の問題として、その妥当性として、再現するに十分なサンプル数と頻度があるか、という点に関して、記述した例を見たことがあまりない。自身の経験と統計学からは、会う相手にもよるが、1社あるいは1テーマにつき、ある程度のキーパーソン30人、年8回に会うというのが最低条件である。

 

http://www.circle-cross.com/2015/04/30/2015430-よいレポートを書くには何人に会えばいいか/

 

INPUTの妥当性

 

 それでは、INPUTが多ければいいというものではない。通常は社長など経営トップにあい議論することが重要だが、いろいろな階層、いろいろな担当、分野の人間に会わないと全貌が見えないだろう。個々の個性もあり、会社の共通の文化や雰囲気が見えてこない。その場合、相手がどこまで真実を語っているかも重要である。

 

情報には、公開性が高いか低いか、重要性が高いか低いか、で区分できる。まずい情報も含め鍵となる情報は通常は公開性が低く重要性が高い機密情報であり、NDAを結んでも出てこない場合が多いだろう。

 

 これを避ける方法は、二つあり、一つは、継続的に同一人物に取材を重なる中で、フィルターをかけること、すなわち、話半分、常に弱気、常に強気などという、ことで情報に重みをつけることである。継続的に会うことで、相手もあまりいい加減な話はできない。

 

また、もう一つは、サプライチェーン全般をチェックすると、重要な事実を公開情報の中で、かなりの確度で推定できる。自身のニューラルネットを形成、パスをかえ、重みづけを調整するのである。そこから、企業の経営の普遍的な真実を見出し、理論化も可能である。

 

他の学問分野との違い

 

 さて、別の切り口から、それぞれのアプローチを、他の学問と比較してみる。横軸に、現場・実験屋的志向か、理論的、机上の思索的志向か、縦軸に数値データ中心か文章記述により論説かを取ると面白い。

 

  こうしてみると、経営学者もアナリストも千差万別であり、数学的、理論物理的、実験物理的、医学生理学的、動植物学的と多様である。それが経営学の面白さでもあり、アナリストの醍醐味であり、AIにも代替されにくい点であろう。