2016年9月3日 経営と経営学と理工学~フィードバック、近似・定量化

 

最近、AIとゲーム、経営学やMBA/MOTなどについて取り上げているが、長年考えてきたことを集大成しようとしている。そういう中で、一度、そういう中での背景を理解してもらうため、自分のバックグラウンドを紹介しつつ、経営学・経済学と理工学の思想の違いのようなことに触れてみたい。

 

経営は身近な日常であった

 

 実家が田舎で同族経営の50100人程度の中小企業だったので、物心ついた時から、生活と経営は一体化していた。親類同士で集まって食事をしていると、さながら役員会の如くで、そこでの話題は、商売や景気の話であり、社員の人事の話であった。子供ながらに関心を持って、面白く聴き、素直な質問をしたり、子供ながらの意見を述べたりしていた。親は遅くまで、伝票や報告書をチェック、部下の営業報告を聞きながら、受注や商談の条件を指示していた。ライバルとのシェア争いでの勝敗を決めたものは何か、商圏の拡大の仕方、商品の多角化、どうして値下げするのか、部下の評価ポイント、モチベーションの与え方や育成、役員間の関係、オフィスの机の配置など、具体的な話が多く、尋ねると、親も喜んで答えてくれた。同族経営ゆえの課題や悩みも、他人事ではなく親族の大事な問題であった。

 

 それゆえ、アナリストとして企業を見る場合や、後にファンドを経営するとき、そして、いろいろな経営学を勉強し、経営戦略を議論する場合にも、こうした背景は大きく影響しているだろう。

 

 高校を卒業すると、実家に帰る頻度が盆暮れ程度になるので日常的に、流石にそういう話題はなくなり、自身の関心も理工系の学問に関心が移る。商売や金儲けではなく、大学での学問や、愛読した「ファインマン物理学」、「キッテル熱物理学」、「高橋安人のシステムと制御」などに感動していた。また専攻が光学や計測であり、その方法論にも影響されている。研究アプローチとして、実験と理論とシミュレーション、また、システムを設計する際に、どこまでハードとソフトのバランス、ハードでは、電気系と機械系のバランスに悩んだりしながら、個々の学問知識を超えた体系や背景にある考え方に関心を持った。

 

経営学と理工学

 

 そういう過程で、経営学にあって、理工学にないのは、当然といえば当然だが、「経世済民」の発想、如何に生きるべきか、絶対的価値観のような哲学的発想だろうか。

 

物理学は哲学と関係はあるが、物体の落下について、どのような軌道を描くかについて物理学は答えても、なぜ力が働かねばならないか、というような問題には答えない(ファインマン物理、あるいは、駿台予備校時代の山本義隆先生の授業)。他方で、理工学にあって経営学にない発想が、定量化と近似の関係、制御工学で必須のフィードバックという発想ではないか。

 

実際、ファインテックの名言に、「数学や物理というのは、神様のやっているチェスを横から眺めて、そこにどんなルールがあるのか、どんな美しい法則があるのか、探していくことだ」、「科学はすべて近似にすぎない」があり、大いに影響されているだろう。

 

 

近似と定量化

 

 電磁気学や光学で、マックスウェルの電磁方程式は、いろいろな条件下、特に波長によって、近似され幾何光学が導出される(近年、経済物理学で同様の研究があり、感動している)。この近似によって、多くの洗練された方程式が導かれるが、その近似の条件を無視するわけにはいかない。統計学あるいは金融工学の基礎となっている式も、近似により、ガウス分布を適用でき、方程式が解ける場合が多い。有名なブラックショールズの方程式も同様であるが、サブプライムローンなど多くの金融の問題点は、そうした近似条件、いわば適用範囲を超えて(現場のセールスなど)実際に用いた場合が多い。

 

経営学でも、多くの有効な経営理論は多いが、それが成立するのは、暗黙の条件下だろうが、多くの理論が、その条件を明示していない場合が多いように思う。著名コンサルタントの波頭亮氏の名作「経営戦略概論」は、多くの経営理論をサーベイ、対立する概念も含め、まとめあげた画期的な著書であり、それぞれの経営理論を実際の経営環境において取捨選択するのが経営者の能力であるというのは至言だ。

 

改めて、他の経営理論の概論的な書籍も確認したが、多くの場合、経営理論の適用条件を、定量的はもちろん、不等号を適用できる位の位相空間において明示はされていない。逆位に言えば、むしろ、そもそも、経営学あるいは経済学の暗黙の了解として、全ての条件で普遍性がなければならない、条件的成立というのは経営戦略理論としては、ダメだ、ということではないか。換言すれば、「近似」でも、いけないのかもしれない。

 

 自身の専攻が計測工学であり、定量化にある故もあり、わが経営重心®分析の価値は、定量化にあり、事業の広さ、文化風土といった重要だが定性的な概念の定量化に努めたことにある。定量化ができないと、理論の適用条件も不明になる。それゆえ、近似の条件は極めて重要であると考える。

 

フィードバック

 

 工学部の本丸ともいえる制御工学の底流にあるのは、フィードバックという発想である。そして、通常は、マイナスのフィードバックであり、行き過ぎた場合にブレーキをかけ、目標に近づける発想である。

 

これに対して、金融や経済では、「いいものはいい、どんどんいい」という価値観であり、規制においても、不況では、BIS規制に代表されるように、どんどん厳しくされる。

 

好況では、どんどん緩和され、暴走しがちになる。IFRSなど会計制度も同様で、厳しい時に厳格化される。時価などは、その典型例であり、ポジティブフィードバックがかかる。DCFにおいて、長年の疑念は、WACC計算で時価を使うが、その場合、値が必ずしも、収束しないということである(この点について、事典やガイドブックのような分厚い書籍も含め20冊は読んだが、それが収束するという証明は見いだせていない)。横比較やあるべきB/Sから決めるというのもあるが、これはトートロジーである。

 

 つまり、金融工学や経済学、経営学には、「ほどほど」、という発想はなく、全てに通用する絶対の公式という切迫感があり、これは定量化の欠如や近似という発想がなく、また、是非善悪を追及する哲学の発想が強すぎるのではないか。

 

学説の流行

 

 波頭氏による経営学の学説の流行に関する分析も大変参考になるが、改めて、そこでも理工学との差を感じた。理工学も流行はあるが、素粒子や生物などを除き、多くの場合、過去に形成された学説が否定したりすることはなく、過去の理論をベースに重層的重畳的に、新しい理論が形成されていく。それらが、反目、対立することはない。そもそも、理工学では、ある示された条件では、理論通り実現されるからである。しかしながら、経営学は、現実に人間が考えながら動いていることもあり、理論通りにいかず、その理論が有効な間は、どんどん流行するが、それが有効でなくなれば、別の異なる発想の新理論が登場してくる。これが大きな差だと感じたが、これらも、理工学と経営学経済学の間で、上記に示す暗黙の思想の差があるように感じた。

 

経営重心®は思想でなくツール、経営を捉える枠組み

 

 経営重心®が、メーカー系のトップや理工系のバックグラウンドを持つ経営者や学者、特に計測制御系等には高く評価されたが、一方で、非メーカーや理工系ではないバックグラウンドの学者、マスコミから、中には、「SO WHAT?」という反応があるのは、こうした要因もあるような気がする。

 

経営重心®については、もちろん、個々に多様な企業に際しては、近似などの成立条件を意識しつつ、具体的に、経営重心®に基づく戦略について是非を指摘することは可能だし、実際そういう提言もしている。基本の概念や考えは同一だが適用に際しては、トップの経営理念や、効率性や冗長性、時間軸やリスクに応じて、様々なバリエーションが存在する。むしろ、そういう条件やバリエーションを定量的に把握して選択できることが経営重心®分析の特徴でもある。

 

経営重心®そのものについては評価してくれた恩師が、「温度を定量化した学者カルビン卿が評価されたのは後年であった、温度の数字がわからなくても、暑い寒いは分かるし、定量化で世の中が変わったわけでもなく、新たな思想が出てきたわけでもない。当時、最初の多くの反応がSO WHAT?だった」と指摘され、それと似ているかもしれないと考えた。

 

測定屋ゆえに、測定屋の悲しみを知っておられたのかもしれない。世が求めているのは、場合分けができる定量化や適用条件ではなく、絶対的価値観、全てに通用する勝利の公式、新しい思想なのだろうか。

 

神の心は問わない自然科学、神の善悪を問う社会科学や人文科学

 

つまり、どういう経営がいいか、どういう経済政策が良いか、について、直接的に答えることが、経営学、経済学であり、どういう経営がいいかについて、参考になるツールの提示ではダメなのだろう。

 

物理学も工学は、ファインマンの言葉にもあるように、自然の摂理については答えを避け、定量化、あるいは、こうなれば、こうなる、という綺麗な因果関係を示し、こういう設計をすれば、こういう人工物ができ、こういうように設計通り、意図通りに動く、という回答に留まっている。では、人間のために、どういう人工物が理想的かについては、設計思想の議論もあるが、是非は問わない。制御工学においても、目標値を定めるのは人間であり、その目標値を実現するのに、どうするか、についてのみ答えている(ただ、シャノンや、ウィナーなど理工学だが情報科学の場合は、思想性が出てきてやや異なる)

 

自然科学や理工学は、エネルギー、情報、生命などで、多くの人間や社会に大きな影響を与えてきたが、その知見や技術は是非や善悪はない、是非や善悪はあくまで人間である。しかし、社会科学や人文科学は、是非や善悪そのものを問う。哲学や思想、宗教も近い。

 

これは、至極、当たり前の話だが、それが、最先端あるは下流側で、MBAMOT、経営学と経営工学、微妙な判断基準や価値観の差に表れているのかもしれない。

 

 最後に、ファインマンの言葉を再掲するが、ファインマンなら、経営学やMOTをどう述べたろうか。

 

「数学や物理というのは、神様のやっているチェスを横から眺めて、そこにどんなルールがあるのか、どんな美しい法則があるのか、探していくことだ」

 

「科学はすべて近似にすぎない」