スマホ人は、何故、予習をせず、相手を見下すのか

 

社会人になってから、企業訪問など、初めての人に会う場合は、必ず、その会社や人物について予習するし、どれだけの知識や見識があるのだろうか、と相手を畏れる。

 

予習

 

最近は、ネットの普及で、かなりのことはわかり、既に、知人が知り合いの場合は、可能な範囲で、聞いて、自分なりに、相手の企業や人物像につき、ある程度の仮説をたて、それを検証しながら、また、どんなことを話題にしようかと脳内実験をしながら、面談する。恐る恐る、相手を高レベルに設定し、それほど詳しくない場合は、徐々に、レベルを下げていき、チューニングする。これは、アナリストだけでなく、自分の周囲トップマネジメントでは、そうであり、これが社会常識だと思っていた。

 

 昨年、4月から大学で教えるようになり、教授の方々と行動を共にし、また、社会人学生と付き合うことが多くなって、こうした「予習」が常識でないと、驚いた。多くの教員が、企業訪問に際し、まず予習はしない上、トップが来校しても、予習せずに、社名からくるイメージだけで質問が出て当惑した。

 

学生も、同様で、予習せず、知ったかぶりをし、私であれ、ゲストであれ、何故か相手を見下し、そのくせ、こちら側が、低姿勢でなければ、上から目線だと批判する。当てると、慌てて、スマホで検索し、適当に答える。数回、突っ込むと、まずギブアップだ。

 

 大学関係だけでない。同年代の知り合い同士で、社長を紹介する際も、相手の会社を予習せず、従って、失礼な質問をしたり、明らかに相手が知っていることを、偉そうに、話すような場合も多い。

 

スマホ依存認識仮説

 

 こうした傾向から得た、一つの粗削りな仮説は、スマホの影響だ。スマホが身近に常にあるため、その場で調べても間に合う。また、それ故に、予習もしなくなる。自分が知らないことで恥をかかないし、スマホの巨大な知識、バズワードがあるため、何を議論したりしても、それは××と関連性があるバズワードで終わり、分かったつもりになる。

 

それゆえ、皆が、知ったかぶり、人の知恵も自分の知恵、ネットの知恵の総和が自分の意見になり、相手を見下すのではないだろうか。

 

タクシードライバー

 

ちょっと似た傾向は、タクシー運転手がスマホやナビ操作は上手くなったが、反面、道は分からなくなり、ビル名も覚えないように感じる。これまで、優れた運転手は、脳にマップがあり、それを視覚から入る外部景色と、ナビのマップをマッチングさせていたように思えるが、だんだん、脳の空間から、スマホの空間に、認識能力が移っており、場所が分からなくても当然という雰囲気になってきた。

 

必需品のスマホの代わりに失うもの

 

 スマホが普及し10年、スマホのインターフェイスを前提に、世界が成立しつつあるが、20年後、30年後、それは異なるインターフェイスになるかも知れない。それまでは、どんどん、脳の認識マップが、スマホの後ろにあるクラウド空間にシフトし、人類の認識のあり方も変わっていくことだろう。そこで、劣化する場合も多いのだろう。人類が、いろいろな知恵や武器をもった代償で、野生の獣の本能などは劣化した。人類は、もはや服なしには、また多くの者は、眼鏡等無しには生きられないが、まさに、スマホ無しには生きられなくなっているだろう。そこで失うのは、勘なのか、礼儀なのか。